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イン・ザ・メガチャーチ (”物語”ってこんな使い方があるんだ)

こちらは、まあまあ近所の個人書店さんで購入。
どんどん本屋さんがなくなっていったり、規模が縮小されていって不安ですね…。

でも、この個人書店さんはものすごく広いスペースがあるわけでもないけれど全てがある、と思える書店さん。田舎の老若男女、すべてが楽しめる本屋さんじゃないかと思う。

さて、なぜこの本を購入したのかって言われても「絶対に面白いと思ったから」としか言えない。じゃあ、発売直後に買えば…となるけど、絶対に一気読みしたいからまとまった時間が取れるときじゃないと困ると思い。もう途中で本を閉じられなくなるとわかってて。

それから、YouTubeで朝井リョウさんが話されているところをたくさん見て「めっちゃ面白そう、読みたい」を繰り返して我慢できなくなって手に取った。

いろいろ理由をつけてしまうけど、単純に2000円オーバーだったから躊躇したというのが本音かもしれない。

でも、朝井リョウさんの本って「隠しておきたい気持ち」「知られたくない気持ち」をどんどん暴いていくから、ぐりぐりとえぐられる。辛いんだけど、「なんでわかってくれるの?」と、辛いのにうれしかったり。

「神がいないこの国で人を操るには”物語”を使うのが一番いいんですよ」って言葉が読む前には気になる言葉で、読んだ後は恐ろしい響きになる。

私、今、何の物語にのめりこんでるんだろうって…。

雑談って多分、ケアなんですよ。

40代後半の久保田さんが、「当時エネルギーを注いでこなかった」ことを考えるようになっている。これって中年クライシスなんだろうか。男性に多そうな気がする。気が付けば職場以外の友人がいないという…。

これについては結構心配になる。夫に対して…。できるだけ、同窓会やら帰省した高校時代の友人とは会ったほうがいいといっている。実父はこれに関して全く問題はない。自営業だったこともあり、友人は若い人から自分より年上の人まで幅広い。ふらっと近所のモーニングに行っても、すぐに知り合いがいてワイワイやっている。

ただ、他者との繋がりとか社会の接点で考えると私だってほとんどない。子供たちが障害児なこともあり、とにかく外との繋がりは、学校、病院、施設ぐらいだ。仕事に行くこともできず、家の中にこもることになる。

それでも、学校のことを知ろうとすると最低限の知り合いはいないとなんともならない。がんばって、学校行事にいってなんとかつじつまを合わせようとするのだ。それを繋がりだったり接点といえるのかどうかわからないけれど。

中年男性の「ケア」については「父と息子のスキンケア」という高殿まどかさんの本で語られていた。女性たちの雑談は忌避されがちだけど、情報交換という名の「ケア」だったりする。学校のことを知ろうとするために学校行事に行くのと同じだ。楽しいからやっているだけじゃない。

父と息子のスキンケア 高殿円

強引に学校や地域、子供関係等々とつながりや接点を持たざるを得ない位置にいる人は、自然と「当時エネルギーを注いでこなかった」ことに対して振り返って後悔することはないかもしれないと思う。だって、1つのことに集中してエネルギーを注げていないから、後悔するとしたら人生全ての後悔になってしまう。

でも、そんな状態で「物語」にはまってしまって、苦しい現実をふりきるようにそこにいれこむと、幸福を感じてしまうと思う。いつ自分もこうなるかわからないし、もうなっているかもしれない。

なんかさ、何でも良い風に言い換えすぎてるよね。

何でもかんでもポジティブに言い換えられる今、不幸や絶望さえ拠り所にさせてもらえない今、何でもいいから信じられるものが欲しかった。

そうだよねー。何でもかんでも「見方を変えれば」っていいほうに考えるのが辛くなる時がある。「これも勉強」って失敗として直視する辛さから逃げれてしまう気がする。でも、辛いのにポジティブに変換して生きるのは不自然でいつか崩壊するときが来るかもしれない。

その”私”とか”自分”に疲れたの、もう。 こんな風に。

一昔前なんてオタクが迫害されていたのに時代はかわったものだ。でも、オタクの肩身が狭かった時代も悪くはなかったのかもしれない。だって、持ち上げられることもないし、期待されることもない。好きなものをただ好きでいさせてもらえたのだから。

よくわからないけどめちゃくちゃ本気で生きてて眩しい

本気で何かにうちこんでいる人が眩しく映る。その人の近くにいれば私もそうなれるのではないかと錯覚してしまう。そこに”物語”がうまくフィットしてしまうと、もうのめりこむしかない。

その”物語”が作られてものであれば、簡単に人を操れてしまう。

まさに、神がいないこの国で人を操るには”物語”を使うのが一番いいんですよとなる。

でも、物語次第で一瞬で景色は反転してしまう。ほんとうに簡単に。「視野を拡げて考えてみると」って一言で、一気に焦点が変わって、みていたものが違うように見えてしまう。

視野を拡げるように”物語”をかくのも、視野を拡げないように”物語”をかくのも、動かしたいほうへ書き直せばよくなる。

だからこそ、一つのものを信じ切る行為が本気で生きていて眩しくうつるのかもしれない。

おわりに

3人の”物語”で動くこの本。どの人にも「自分」がいるようで本当に怖かった。私も、いつどの人になるかわからない。もしかしたら、子供が成人してちょっと時間が空くようになったとか、ちょっと心に隙間ができたときに襲ってくるのかもしれない。

いまではAIでいくらでも”物語”が作れる。背中を押してくれるようなことも、追い立てられるようなことも、”物語”にのせて操られてしまう。

私は物語が大好きだ。

結局、誰かが作った流行のなかにいるかもしれないけれど、頭の中だけが忙しくて、現実にはなんの行動もできてないと、ますます物語を妄想してしまう。だからこそ、実際にやってみたり行ってみたり、経験していくことが”物語”にのみこまれない方法かもしれない。

もしくは、自分の物語を自分で描けるようになれるかもしれない。

ほんとに、朝井リョウさんの本はえぐられる…。

何かにのめりこみたいときに是非

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