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考察する若者たち(もう少し、正解以外のものが大切にされてもいいはずじゃないか)

この本を手に取ったのは三宅香帆さんの本に興味があったから。そもそも、「好き」を言語化する技術を読んでからこの読書記録を書き始めたからというのもある。他にも気になる本はあるけど、消化できるかわからなかったからなかなか手に取れなかった。

「好き」を言語化する技術(推しについて語ろうぜっ)

また、無敵化する若者たちを読んで、こちらも読みたくなった。気にはなってた。ちょうど息子は「若者」世代だと思うし。

無敵化する若者たち(それでもイラっとしてしまうけれど)

批評から考察へ

どうやら令和は、物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかとのこと。これって、タイパとかコスパの行きついた先なんだろうか…。

考察には「正解」がある=報われるゴールがある
批評には「正解」がない=報われるゴールがない

確かに、正解がわかると達成感を感じる。

でも、なんでもかんでもゴールしないといけなくなる。ゴールできずに途中下車できないじゃないか。適当にフェードアウトするのが後ろめたくならないか?

もしかしたら積読の概念も通じなくなってくるのかもしれない…。

ループものから転生ものへ

「努力すれば成功できるスペック」に生まれていれば努力して人生は成功させられる、という考え方があるようだ。

確かに、成功できるバックグラウンドがある家に生まれれば成功できる可能性は高くなると思う。いい家の子をうらやましく思ったこともあった。でも、今になって思うことは「いい家の子はプレッシャーも半端ない。自由にのほほんと暮らせた庶民万歳」とも思う。

努力したから成功できる、はそうなのかもしれない。でも、成功できるまで努力し続けられるかどうかは本人次第。早々に成功できるかもしれないし、超大器晩成かもしれない。でも、「いつか成功できるスペック」だとわかっていれば何十年も頑張れるということなのかな…。

「成功できる」スペックをもっているのに成功できていないと、自分を縛りとても苦しいのではないだろうか?「努力してないんじゃないの?」という視線にも耐え続けないといけない。現在の「自己責任論」とでもいうのだろうか…。適当な逃げ道があるほうが楽なように思うんだけど、それが今と昔の差なんだろうな。

メディアからプラットフォームへ

「観る前から報われポイントがわかっている」
つまり、プラットフォームで数値的に「これは見られる、読まれる」と認められたものが上位にある。

読む前、見る前からどんなものかわかっていればクリックしやすい。確かに、しんどいときはそういうものをよく見ている。何も考えたくないとき、何かから逃げたいとき、そういう時にWEB小説を読んでいる。

だいたいどういうものかわかって、それ通りに進んでいくから。さらに私は現実ではない全くのファンタジーがいいので楽しんでいる。そこに現実要素が少しでもはいるとしらけてしまう。

でも、飽きる。何も考えたくないときが続くと読む時間も増えるが、充実してくると飽きる。

当たらずとも遠からずのものをどんどんおすすめされてくると、自分の好きもわからなくなってきそう。これが「正解に近い最適解」を出すことを求められるということなのかな。

そこから個人の感想なんて意味のないものになっていくのか…。「それってあなたの感想ですよね」という言葉がはやる。

いや、個人の感想あっていいやん。いろんな感想がおもしろいやん。っていうんじゃないんだね。好きを好きっていうだけじゃだめなのか。なんだかしんどいな。

ヒエラルキーから界隈へ

界隈にヒエラルキーはない。界隈を超えて交流することは稀。でも、これって昔もあったと思うんだけど、今と何が違うんだろう?

今の高校生(息子)を見ていて、どうしても親としては「部活とかの友達は一生もの」って言ってしまう。でもどうもそうではなさそう。高校生の友達は高校生の時のものって感覚。ずっと続くという感覚はなさそうに見える。もう一度つながろうと思えば、簡単につながれるからなのか、そもそも最初からその時だけのものという感覚なのか、時代が違えば友達の概念も変わるということに驚いた。

界隈=フラット、正しさがない
親子=ヒエラルキー、正しさがある

こういった感じらしい。自分が高校生のころなんて親が正しくて相談するってあまりなかった感じだなー。正しいかもしれないけど反発してしまうというか…。正しくないかもしれないけど友達に相談してあとは自分で判断だったのかも。そうだ、自分で判断していたんだと思う。

つまり、何度も失敗できたんだ。失敗してもSNSで拡散されることもないし、その時恥をかくだけでよかったんだもん。「失敗したくない」感覚は今のほうが格段に高いんだと思う。大変な時代だ。

自分らしさから生きづらさへ

著者がアルゴリズムと呼んでいるのは「レコメンド(おすすめ)」と「パーソナライズ(個人化)」の二つの要素。個人個人が見たもの合わせて、それぞれにあった情報をおすすめしてくれる。その結果、私たちは選ぶ必要がなくなる。

これって、psycho-passの世界じゃない?
このアニメにめちゃくちゃハマって、頭の中に犯罪係数って言葉が常にアラートされてるぐらいだったんだけど、この世界では学校を卒業するときに自分の就職先もある程度指定してくれる。当然、結婚相手も。自分で何を選ぶか迷うってことがない世界。おすすめ通りにしていると幸せになれる。

つまり、告白するときに「フラれるかも」って心配がほぼない。仕事を始めても「こんなはずじゃなかった」がほぼない。辛い思いをせずに最適解が得られる。

いいんだと思う。ただ、それを通り過ぎた自分からすると「それでいいのか?」とも思ってしまう。なんというか「危機感」とか「事前準備」とか「警戒感」とか…そういったものを持たないままになってしまう。いや、psycho-passの世界では犯罪係数が高い人は問答無用で排除されるから問題ないんだろうけど、いいんだとうかと思ってしまう。これが老害というのかもしれないが。

「自分で選ぶ」というのは大事なことだと思う。自分で選ぶということは「選んだ責任をとる」こととセットだから。与えられたものばかりだと、どうしても人に責任を求めてしまう。それは自分にとっても周りの人にとっても不幸だ。

全てが自己責任の世になるのもシビアだけれど、すべてを与えられる世もシビアになるのではないかと思う。

おわりに

はじめに、に『なぜこんなにも、ただ感動するだけの時間がなんとなくもったいない、と思ってしまうのか』とあった。

そういえば、「人生で大事なことは漫画から学んだ」とか「この本からの学びは…」とか「この映画からの…」「この経験からの…」と、何かをすればすべて「学びは」と続くようになってきたと思う。

感情さえもアウトプットしないと「もったいない」ものになってしまうことに驚く。たしかに、アウトプットすることでコンテンツをつくり、それを色々なところで展開することで利益がでる。コンテンツは1つでも、あちこちで使わないと「もったいない」となるのだ。

それは正しい。間違ってない。

ただ、私は疲れるんだ。
感動したら感動したで終わりたい。
好きを好きで終わってもいいじゃないか。
萌えから推しに変わったというけれど、私はそれ以前の「ファン」だった。「キャー」って言ってるだけでよかったんだよ。

じゃあなぜブログでアウトプットしてるのか?

どうしても忘れてしまうから手っ取り早くどんな感想を持っていたか思い出すため。どんな本だったか思い出すためというのが大きいかな。

読んでも残さない本もあるけれど…。(それは、もう読まないなって思った本でもある)

タイトルだけでのイメージと読後のイメージが変わった本。読んでよかった。面白かった。

もう少し、正解以外のものが大切にされてもいいはずじゃないか

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