
なぜこの本を手に取ったかというと「阿部暁子さんだから」なんだけど、なぜ阿部暁子さんかというと「室町繚乱」がめちゃくちゃ好きだったから。当時、南北朝時代にはまっていた私にとって、この本がドストライクだったわけで。
そういうこともあって私は時代小説を書かれる方なんだと思い込んでいたら、本屋大賞を受賞された本が現代の話っぽくてちょっと驚いた。
で、なぜ先に本屋大賞の「カフネ」でなく「カラフル」を手に取ったかというと車いすユーザーの高校生の話だったから。夢を追い続けられなかった少年と少女の再生と恋の物語、って書いてあって、まあどこかで恋愛になるんだろうとは思ったけど、少年が夢を追い続けられなかった理由も気になった。だから、カフネよりも先にカラフルを手に取った。
「あなたには私が車いすに見えるんですか?」
駅で窃盗犯を確保した後、六花が伊澄に言った言葉。健常者からしたら、どうってことない一言だろうし、揚げ足を取られたと怒り出してもおかしくない言葉だと思う。
でも、これを相手にはっきりと伝えた六花を尊敬するしそういう人になりたい。そして、揚げ足をとられて怒り出してしまう人にはならないようにしたい。無意識でやっていることもあると思う。だからこそ、知っていることを増やしていきたい。
以前、私は相談支援員さんと話した時に「強度行動障害の人」と言ったことがあった。その時、支援員さんは私の言葉を訂正をしたのではなく、支援員さんから話される時には「強度行動障害を持つ人」と言われた。私はそこに無頓着だった。多分、ふさわしくない表現だったんだろうと思う。
人によってはそこまで思わない人もいると思う。でも、多数派だからよしとしたくない。だって、我が家は少数派の集まりだから。
「障害」「障碍」「障がい」と「しょうがい」についても度々表記の仕方が取り上げられることがある。私の中では正直どれでも・・・と思う。強いていうなら「障碍」は書きにくいから大変だな、くらい。
いろんな人が反対のことを言ってたらどうするんだよ、ってことだけど、まずは、実際生活している場所、自分の生活圏を大切にしたいな。
「けど、それでも、私はこれを個性とは言わないでほしい」
本当にそうだよ。個性って言って「自己責任」みたいにしないでほしい。二足歩行ができるのも個性っていうんだったら、なんで世の中は二足歩行に特化した社会インフラになってるんだよ。おかしいよ。
車いすやベビーカー、バギーなども生活できるようになっててもよくない?できるところだけやればいいやん、で、すませてしまうのってどうなん?そのためだけに大金をかけられないっていうけど、二足歩行の人たちだけのためだけに大金かけるのはOKなの?やっぱり、多数派だからOK?
障害と個性の棲み分けってどうなってるの?時と場合によるの?そんなん、上手く使えば、健常者やん。でも、同じように生活できないんだよ。
「じゃあどうしたらいいんだよ」ってことだと思うけど、同じ場にいるなら同じように聞けばいいんじゃないかな?この本の場合、学校行事に参加するかしないかをクラス全員に確認すればいいんだよ。「多分参加しないだろう」じゃなくてさ。
そして、時間がないから検討しないんじゃなくて、早めに準備を始めればいいんじゃないかな。そしたら、想像してなかった問題が出てきても対処できるだろうし。何でもかんでもそんなことできないって?いや、学校行事っていう大きな行事くらいやろうよ。そしたら、だんだん「相手に確認する」ってことが当たり前になってくると思うよ。
そんな拒絶や排除とすらいえない、すごく曖昧で当人たちも自覚していない、でも確かに存在する意識
当たり前に行かないことになってて、特定の時だけ存在するものになってることがある。空気のように当たり前に存在していることになってる時と「私はここにいます」ってアピールしないと見えない空気になってしまう時と。
地域の小学校に6年通っていると、保護者の方々や先生方は、その塩梅をいい感じでやってくれたので嫌な思いをすることはなかった。それでも、毎回、娘にも出欠確認はされていたよ。一度だけ参加して、途中で帰ったけど、子供達めっちゃ歓迎してくれたよ。多分、保護者の方々はどう扱ったらいいかわからなかったと思うけど、普通に扱ってくれたよ。
だから多分、「慣れ」なのかな。何度も経験して行くうちに、経験値を上げて行くんだと思う。当事者からの指摘は経験値のジャンプアップだと思うね。驚くしグサっとくると思うけど。でも、当事者はそんな思いを日常にしているかもしれない。だから、仲間に入れて。
「自分はここにいる」って言うのに必死なんだよ
誰もが必死だから、余裕がないから、周りを見たり相手のことを考えたりすることが難しくなったのかもしれない。自分を見てほしいけど、相手を見る余裕はない。これは子供だけじゃなくて大人もそうだと思う。
どうしたらいいんだろう。辛いだろうけど、自分を見る、じゃないかな。自分を見るって辛いけど、でも、誰かと比べるんじゃなくて、自分を見る。自分の良かった時や辛かった時を振り返ることになるから辛い。だからゆっくりでいい。まずは自分で自分を許していこう。
「六花、大人というのは、歳をとった少年少女のことなのよ」
「歳をとった少年少女」これ、すごくいい。私もこう言いたい。少年少女だった時と比べたら、いろんな経験値を積み上げすぎたけど、しがらみを忘れて、好きなことを好きって言えるのは「まさに青春」。その上、仲間なんかできたら「青春真っ盛り」だよ。そんな大人になりたいし、そんな大人でいたい。
大人だからって、経験値が上がったからって、平均的に全てがレベルアップできてるとは限らない。苦手なこと、知らないことはたくさんあるんだから。
おわりに
「私は車いすじゃない」この一言で目が覚めた。「私は呑気に暮らす主婦じゃない」こう言いたかった。好きで自宅にいるわけじゃないし、自宅にいるからといってゴロゴロしているわけでもない。電話がかかればすぐに迎えに行かないといけないし、いつ子供が入院するかもわからない。そうなってもいいように常に準備している日々を過ごしていて「呑気」と言われたら辛い。でも、当たり障りなく「そうですねー」って流すことが多い。ここにモヤモヤが溜まっていく。
「何者かにならなければ」と焦ってしまうけど、「何者か」って何?
「私を見て」と言いつつ「自分を」見てみよう。

私はナニ?と焦っている人に是非。